押入れの中にいるあなたが日光浴するのをお手伝いします
なぜならそこはゲイの「欲求」を満たすものがそろっているからです。1年中太陽が降り注ぐ夏の気候、出会いのゲイビーチ、ゲイフレンドリーレストラン、ゲイバー、ゴーゴーボーイ…パタヤはあなたのふるさとかもしれません
まず40代のお客様からのメールから
今年は、身辺で予期しなかったことが次々と起こり、これまでの人生に無かったことがめまぐるしく起こってまいりました。
今年の4月にまず1件のとんでもない事態で起こり(直属部下の自殺未遂)、私は今年厄年(41歳)なので、厄払いが不十分かと思い込み、明治神宮、現在居住している地域の氏神に厄払いに行ったものの、さらに、事態は悪化し、10月には初めての部署異動と・・・・ いままで周りよりもことのほか恵まれた運と処遇で猪突猛進的に進んできた会社生活ですが初の壁にぶちあたっております。
自分の弱さをもっと出して行こう。
そして、受けるだけでなく、与えていこうと思っています。
愛もそうですね。ゲイは基本的に受けで、癒しを求め、愛を求めているのが大方でしょうが、自分から愛を与えていく姿勢も取れれば人生観も変わるのだと最近、飲み屋の女将さんからも説教受けましたが、そのとおりですね…
お金はないと困りますが、あっても真の心の寂しさは満たされないのかもしれませんね。
あるお金を自分の欲のためだけに注ぎ込んでも、終わった後には別の寂しさが残るのかもしれません。
私も自分のためだけでない、誰かのためになるようなお金の使い方をしたいです
それがある意味での自分のやり甲斐、生き甲斐につながるのかもしれません。
ははは、なんかこう書くと結局は自己の欲求達成のためみたいですが・・
パタヤにあるカトリックの神父さんがやっている孤児院、パタヤ「子どもの家(旧名称:ストリートキッズの家)」とその母体である「レイモンド・ブレナン財団」を訪問した。
色と欲望で汚れたパタヤにもそんなことをした奇特な人がいたとは・・・
驚くべきことである。
1961年(昭和36年)にカトリック・レデンプトリスト派の神父として米国からタイに派遣されたレイモンド・ブレナン氏(通称レイ神父)は、初めてタイを訪れて以来たびたびこう思ったそうだ。
"同じ知性と能力を持った人間が、なぜ通りで物乞いをしなければならないのか。彼らに教育の機会を与えさえすれば、世界は劇的に変わるにちがいない"と
(写真は現在建設中のレイモンド・ブレナン神父の記念館)
当初、私たちは孤児院なんて、暗くて貧しいイメージしかなかったから、5分も居られないだろうと思っていたが、それは大きな間違いだった。
ブレナン神父
(意外に大きかったパタヤ子どもの家、男女別に分かれている、写真の建物が男の子専用宿舎)
建物は清潔、スタッフも快活な感じで、子どもたちはいたって元気で活発だった。
(子どもたちはテレビに夢中だった、子どもの家、多目的広場)
かつて孤児だった青年のひとりは、ここで奮起して勉学に励み、有名大学まで行ったのちここに戻り、今や孤児院で子どもたちを教えている。
ここでわかったことと言えば、=孤児も乞食も一般人もみな能力は同じ=ということだ。
(昨日はストリートキッズ、今は元気にパソコンでゲームに熱中)
誰でもきちんとした教育の機会さえ与えられれば、立派な社会人になれるということを先の青年は証明している。
恥ずかしい話だが、私を含め日本人は、寄付なんかより1万円でも安くいける海外旅行、1本1万円のワインや、1万円するオシャレな洋服に興味があったりする。
ゲイなら1万円あったら「売り専」で好みの子にマッサージしてもらうことに興味があったりする。
我々はとかく自分の欲望にお金を使ってしまうものだ。
これはある意味、どうしようもない。
ところが、最近の日本人はめったなことでは満足しなくなったという
かなり高額な消費をしても、うれしくないのだという
そんなことは誰でもやっている・・・
金出せば誰でも手に入ることだから・・・
なぜだろう?
もしかしたら、金で手に入れられる喜びって
かなり薄っぺらなものなんじゃないかなーって思う
孤児院で思ったことだが・・・
年に1回でいいから、我々がそんな欲求を抑えて、ひとり100ドル(1万円)でも毎年出せば、世界は変わる=>彼らに果てしない教育の機会を与えられるのに
と思った。
同じ地球の住人として私たちは彼らに何ができるのだろうか?
国境とは勝手に人間が作ったもの、だが、人間そのものには境界はない、と思った。
(財団のもつ職業訓練施設、「障害」者に仕事を斡旋するスタッフ、彼も「障害」者だ)
もしかしたら、私はどこかで聞いたようなせりふを吐いているのかもしれない。そんなことは24時間テレビでもやっている。
今や、寄付とか募金とか言う言葉にうんざりしている日本人が多いのではないか?
いや、ちょっと待って欲しい・・・
(財団にある印刷部門、ここで寄付の要請はじめあらゆるメッセージが印刷される)
ニュースを見れば、経済的に豊かになったといわれる日本から耳を疑うような事件が毎日入ってくる
真綿にくるまれたような日本では、いまや目的を見失い、次々と人を刺して歩く若者が大勢いるという。
この経済先進国からやり場のないストレスが弾丸のように吹き出しているのはなぜか?
一方、いまだに道路には物乞いがいるタイだが、孤児院で勉強している子どもたちからは春の太陽のような微笑みがこぼれている
この違いは何なのだ???
(学校の校庭には車椅子で南国の太陽の下、輝いている子供たちが描かれていた)
我々は神父さんはじめボランティアの方々に施設を案内してもらい、とても充実した時間を過ごすことが出来た。いや、充実した時間というより、「温かい時間」だった。
車椅子に乗っている両足ともない若者がキラキラ輝いた顔をしているのに、自分の足で歩ける私がどうして暗い顔をしているのだろう
と写真を見て、苦笑いしてしまった。
イキイキした表情の子どもたちに元気をもらったので100ドルほど寄付した。
このセックス産業の街パタヤに来て、男遊びを重ねた人の中には、ときどき孤独と空しさを訴える人がいる。
それは、とてもとても切実なものだ。
人間とは曖昧模糊な存在だ。男遊びが充足されても、人間としての喜びは満たされていないとこぼすのだから・・・
彼らは、事が済んでも必ずしも満足しておらず、空しささえ感じているのだ。
これって一体どういうことなんだ???
人間の心ってどうなってるんだろう???
人間はどうも、金で買える喜びにはすぐ飽きるようにインプットされているらしい。
むしろ、誉(ほま)れのある行為に自分のお金を使ったとき、喜びを感じるようにできているのかもしれない。
それは人を救われた思いにするからかもしれない。
人間なら誰でも美しい心情がある。時には自分の欲望を満たすだけでなく、
美しい心情に訴えかけるような行為をしたいのかもしれない。
21世紀のビジネステーマは「慈善」と「ボランティア」だという。
弊社では売り上げの数パーセントをこの孤児院に寄付させていただくことをお客さん同意の上、ビジネス主旨に盛り込むつもりだ。
ここではボランティアも募集しているので、リタイア後のボランティア希望者にはもって最適の場所になるだろう。
(1960年代にブレナン神父がオフィスとして使用していた貨物車両、今後はこれが記念館になるという)
パタヤでは男遊びは自由だ、だが一方ではきちんと社会に役立つ行為もしている、そんなことが近いうちに当たり前になるかもしれない。
私は個人的に罪滅ぼしという概念は存在しないと思っている。
だが、少なくとも意義ある活動にも自分はお金を使っているのだ、というある種の満足感は、旅行者の新しい喜びにつながるだろうと思っている。
帰りの車の中で、私たちはいままでに感じたことのない喜びを感じていた。それはとても不思議な至福感だった。
最後にブレナン氏の言葉をもう1つ・・・
"愛する仕事に出会うことができれば、「働かなくてはならない」と思う日は生涯にただの1日もないであろう" (2013年4月記)
パタヤの孤児院に行ってみたい方はお問合せ下さい